大勢の観光客で賑わっている箱根界隈はとても居心地が悪いので、何もしないでそのまま箱根湯本まで引き返し、海の景色を見たかったので、小田原から東海道線に乗り換え大磯へ立ち寄った.
前回福島を訪れた時は福島駅から文知摺観音までの間をバスで往復しただけだったので、桃源郷のような信夫の里をゆっくり歩いて見ようと思い、桜と桃の花が一斉に咲く頃を見計らって出掛けることにした.
今年の年明けに奥州平泉まで『奥の細道』での芭蕉と曽良の足跡を辿ってきたが、ようやく『奥の細道』巡りの続きを再開することができる状況になってきた.今回は週末の二日間を利用して尿前の関から尾花沢までの足跡を辿ってみることにした.
日本三景の一つとして名高い松島は、奥の細道の旅の前半のハイライトとでも言うべき目的地で、奥の細道本文の「発端」で「松島の月先心にかかりて」と述べているばかりではなく、「松島」の記述に多くの行を費やしていることからも芭蕉の松島に対する思いが伝わってくる.
五月八日朝に仙台を立った芭蕉と曽良は多賀城で「壺の碑」を見物し、塩竈に行って御釜神社に詣でた後、「末の松山」、「沖の石」、「おもわくの橋」「野田の玉川」などを見物した後、塩竈神社の傍らにある法蓮寺の門前の治平さんの家に泊まっている.翌朝、塩竈神社に詣でた後、塩竈の港から船で松島へ向かっている.
芭蕉と曽良は松島から石巻を経て義経が最後を遂げたとされる平泉を訪ねている.平泉は平安後期に奥州藤原氏三代(清衡、基衡、秀衡)が築いた一大宗教都市で、東北の地に独自の文化が花開いた地域だ.
文知摺石を見物した芭蕉と曽良は月輪の渡しで阿武隈川を越えて、飯塚の里鯖野(佐場野)にある真言宗のお寺である瑠璃光山医王寺を訪ねている.この医王寺は佐藤庄司一家の菩提寺で、佐藤基治とその二人の息子である、継信、忠信の墓がある.
文知摺石というのは、山裾にある曹洞宗の普門院というお寺(文知摺観音)の境内に置かれた大きな石で、河原左大臣が詠んだ歌に因んだ伝説に依るものだ.芭蕉と曽良は黒塚を訪れた翌日にこの文知摺石を見物している.
安積山を訪れた芭蕉と曽良はその足で二本松にある黒塚に立ち寄っている.黒塚というのは謡曲「黒塚」(観世流では「安達ヶ原」)にちなんだ名前で、この辺りは安達ヶ原と呼ばれている.
年末に仙台周辺の歌枕を幾つか訪ねたが、手元に残っている18切符の消化も兼ねて『奥の細道』に記載されている歌枕でまだ訪れていない地を訪ねてみることにした.