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2008
81番 白峯寺(西行、崇徳院ゆかりの地を訪ねて)
西行、崇徳院ゆかりの地を訪ねて(八十場の泉、白峯御陵、白峯寺)
八十場の泉
78番郷照寺から79番高照院へ向かう途中、白峰宮の手前に八十場の泉という霊泉がある.お遍路でこの付近を歩いた人にとっては遍路コースの途中にあったので記憶に残っているのではないかと思う.私も5月下旬の暑い日にこの泉の水で手や頭を冷やさせて貰った.
さすがにこの水をそのまま飲む気にはなれなかったが、降雨が少なく水に苦労する讃岐地方にあっても一度も枯れたことのない由緒ある霊泉だと言う.泉のすぐ横には名物のところてん屋さんがあったがこの日は営業していないようだった.
保元の乱で破れた崇徳院が讃岐に流刑となり、朝廷に対する怨念を抱いたまま1164年8月に崩御した際に、院の処遇をめぐって都からの勅許を待つ間に、遺骸が腐敗しないようにこの泉に浸けておいたという.
79番札所の高照院の寺号の天皇は崇徳院に因むもので、崇徳院を祀った神社が白峰宮だという.高照院は白峰宮の敷地の中にちょこんと間借りするように建てられていたので不思議に思っていたが、幾多の変遷を経て現在の79番札所 高照院天皇寺という形に落ち着いたらしい.
四国遍路ひとり歩き同行二人の地図には79番札所は『高照院』としか記されていなかったので、高照院というお寺だと思っていたが天皇寺が正しい寺名で、『金華山 高照院 天皇寺』が正式名称のようだ.
泉の奥は鬱蒼とした森になっていてどことなく崇徳院の怨霊が籠もっていそうな陰鬱な感じがした.
八十場の泉を後にして、79番札所には立ち寄らずにそのまま81番札所の白峯寺へ向かうことにした.大抵の順打ちのお遍路さんは80番の国分寺から82番の根香寺までは順番通り打って行くが、国分寺から白峯寺へはお遍路転がしの急な遍路道を登って行かなければならない.
打つ順番を変えて 79 → 81 → 82 → 80 → 83 と打てば国分寺からのきつい上りを避けることができるので、山登りが苦手なお遍路さんにはこちらのコースの方が歩き易いかもしれない.ただしきつい上りが無い代わりに、きつい下りがあるので、雨の日など足下の悪い日には避けた方が良いだろう.
西行法師のみち
院の崩御から4〜5年後、西行は院の怨念を沈めるため四国の讃岐への修行に訪れた.讃岐の松山の津という場所に船で渡り、院の配所を訪ねている.
讃岐にまうでて、松山の津と申す所に院おはしましけむ御跡たづねけれど、形もなかりせば
松山の波に流れて来し船の やがてむなしくなりにけり
松山の波のけしきは変らじを かたなく君はなりましにけり
八十場の泉から田園地帯を歩いて白峯寺、根香寺のある五色台を目指した.松浦寺という場外霊場の小さなお寺に立ち寄ると、大きな石の上にちょこんと大師像が載せられていた.山裾には高屋神社(血の宮)という小さな社が建っていて、境内に御棺䑓石と呼ばれる六角形の石が祀られていた.
崇徳院の遺骸を荼毘に付すため八十場から白峰へ移送する際にこの石の上に棺を置いた時、おびただしい量の血が滴ったと言われている石だという.そのためこの神社はこの辺りでは血の宮と呼ばれている.
左手に瀬戸内の海を眺めながら大型バスが通れるような広い道を上がって行くと、いかつい自衛隊の装甲車や兵員輸送用のトラックがひっきりなしに下りて来た.この先に自衛隊の射撃演習場があるのでそこから下りてくるのだろうが、迷彩服を着た兵士や軍隊系の車両を見る度に不安な気持ちにさせられる.
そう言えば去年もこの先の演習場付近で遍路道を探して彷徨っていたら、自動小銃を持った見張りの隊員とバッタリ遭遇してビックリした事を思い出した.お遍路さんと銃を持った兵隊、何とも奇妙な巡り合わせだ.善通寺市内に自衛隊の大きな駐屯地があったので、そこの隊員達がこの演習場で射撃演習をしているのだろう.
車道と別れ白峯寺へと続く参道に入った.参道の入り口には坂出市の教育委員会が立てた西行法師と崇徳院、白峯に関する伝承が記されていた.参道の傍らには比較的新しい沢山の歌碑が立てられたいた.
歌碑に載せられている歌は、主に『山家集』から転載されたものが多かったが、白峯御陵の下まで続く長い参道に全部で八十八基立てられているようだった.
長くつらい参道の階段も途中の歌碑を読みながら登って行くと全く苦にならなかった.私の古典文学の知識では歌の内容を完全に理解することはできなかったが、西行や崇徳院ゆかりの人たちの心情が伝わってくる思いがした.
瀬をはやみ岩にせかるる滝川の われても末にあはむとぞおもふ 崇徳院御製
百人一首や落語で名高いこの歌は一般には恋歌とされているが、自分の子供ではなく腹違いの弟に皇位を無理矢理譲らされてしまい、自分が院制を取ることも自分の子孫を皇位に付けることもできなくなってしまった哀しみを詠っているのだと言う.自分の子孫が再び皇位を継承できるようにという願いが込められているのだろう.
崇徳院が白河法皇と待賢門院璋子の間に生まれた不義の子供であるという生まれながらにして不幸な運命を背負わされていたためか、崇徳院の歌には悲しい調べのものが多いと言う.
松が根の枕も何かあだならむ たまの床とて常のとこかは 崇徳院御製
白峯と申しける所に、御墓の侍りけるに、まゐりて
よしや君 昔の玉の床とても かからん後は何にかはせん 西行法師
崇徳院が生前詠んだ歌に対する返歌という訳ではあるまいが、西行が崇徳院の墓の前で思わず絶唱した鎮魂の歌なのだろう.
これまで歴史などあまり興味がなかったが、西行という類い希な歌人の足跡を通じて歴史の一コマに触れることができ、楽しみながら参道を歩くことができた.残念なことにこちらの参道(遍路道)を歩くお遍路さんやハイカーは少ないようで、白峯寺までの途中誰一人として会うことがなかった.古典文学や歴史に興味がある方ならこちらの遍路道を歩いて見る事をお薦めする.
参道を上りきると白峯寺の駐車場の下に出た.参道をそのまま真っ直ぐ進むと白峯寺へ、左に曲がると白峯御陵へ通じている.白峯御陵は一応天皇の陵墓なので今でも宮内庁の管轄下に置かれていた.
人気の無い長い階段を昇って行くと御陵の前には白い玉砂利が敷き詰められて、枯山水の庭園のように綺麗に紋様が描かれていた.隣の白峯寺と違ってこちらの御陵は訪れる人もなくひっそりとしていた.
白峯御陵から白峯寺の境内へは細い小径が続いていた.白峯寺の境内は参拝客や紅葉目当ての人たちで賑やかだった.本堂へ向かう階段に向かわずにそのまま山門をくぐり頓証寺殿へ入った.頓証寺殿には崇徳院にまつわる多くの宝物が納められているという.
怨霊となって皇室を滅ぼさんとした崇徳院の祟りを恐れて建てられたものなのだろう.頓証寺殿の横に小さな西行法師像が置かれていてその奥に『崇徳天皇御陵遙拝所』、『西行法師廟参の遺跡』の案内標識が立っていた.
白峯寺の境内は賑やかだったが頓証寺殿の境内にはほとんど人が居なかった.たまに訪れる人が居ても、ここが何を祀っている建物なのか理解している人は居ないようだった.