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2020
平泉
奥州平泉に義経と藤原氏三代の面影を訪ねる
芭蕉と曽良は松島から石巻を経て義経が最後を遂げたとされる平泉を訪ねている.平泉は平安後期に奥州藤原氏三代(清衡、基衡、秀衡)が築いた一大宗教都市で、東北の地に独自の文化が花開いた地域だ.
芭蕉は奥の細道の平泉の章で、前半に高館から眺めた平泉の様子と義経主従がここで最後を遂げた往時の事を忍び、後半では中尊寺を訪れて経堂と金色堂を見物しての感慨を記している.有名な次の二句「夏草や兵どもが夢の跡」、「五月雨の降り残してや光堂」はこのとき詠まれた句だと云う.
源氏の頭領であった源 義朝が平治の乱で平 清盛に敗れ、その子である頼朝は伊豆へ島流しにされ、まだ幼かった九男の義経は京都の山奥の鞍馬寺に預けられていたが、義経はこのまま鞍馬寺に留まっていたのでは僧侶にされてしまうので、鞍馬寺を脱出して藤原秀衡を頼ってこの平泉の地に移り住んでいる.
兄の頼朝が平家打倒のため挙兵したことを聞いた義経は佐藤継信・忠信兄弟を伴って頼朝の元に馳せ参じ、一ノ谷と屋島の戦いで著しい功績を挙げるが、頼朝にとっては頼もしい弟から次第に自分の身をも脅かす存在に変わって行く義経を疎ましく思い、遂には義経を追討する命令(院宣)を出してしまった.
このため、義経は鎌倉幕府から追われ苦難の逃避行の末に再びこの平泉の地に何とか辿り着いたという.秀衡は義経を暖かく迎え入れ、居を構えるための領地まで提供している.その住居跡が高館の義経堂だと云われている.
義経堂は北上川の畔に残る標高60〜70m程度の小さな高台の上に建てられている.ここからは北上川や平泉全域を見渡すことができる.
曽良の日記から平泉に関する部分を追いかけてみる.
十三日 天気明. 巳ノ勊ヨリ平泉へ趣.(一リ)山ノ目、(壱リ半)平泉へ以上弐里半ト云ドモ弐リニ近シ.
高館・衣川・衣ノ関・中尊寺・光堂(別当案内)(金色寺)・泉城・さくら川・さくら山・秀平やしき等を見ル.
...
経堂ハ別当留主ニテ不開.金鶏山見ル.
...
申ノ上勊帰ル.
一関の宿を午前九時頃出て、二里ほど(線路沿いに歩いて7km程度)歩いて平泉を訪れている.夕方の四時頃に一関に戻っているので、平泉に滞在していたのはわずか3〜4時間程ということになる.
平泉駅から旧道を歩いて行くと、線路との間に宇治の平等院鳳凰堂を模して秀衡が建立した無量光院跡があり、現在は公園として整備している最中のようだった.その先で右手に折れると木々が生い茂った高台となっており、その頂上に高館義経堂が建っている.
義経堂からは北上川や周辺の山々を一望することができる.西行が歌に詠んだことで知られるようになった束稲山の様子もよく見える.今は桜の名所だった面影はないようだが、桜の季節にもう一度来てみたいと思う.
西行は生涯で二度平泉を訪れているが、この平泉の地で詠んだ歌として次の二首が知られている.これらの歌は西行が若い頃の修行の旅で平泉を訪れた際のものとされている.
十月十二日、平泉にまかり着きたりけるに、雪降り嵐激しく、殊の外に荒れたりけり、いつしか衣川見まほしくてまかり向かひて見けり、川の岸に着きて、衣川の城しまはしたる事柄、様変はりて物を見る心地しけり、汀凍りて取り分寂びければ
取り分て心も凍みて冴えぞ渡る 衣川見に来たる今日しも 西行 [山家集 1131]
西行が平泉に着いたのは十月十二日(現在の暦では11月13日頃)で、束稲山の桜を歌に詠んでいることからも、半年以上この平泉の地に滞在していたようだ.西行と奥州藤原氏とは同じ藤原秀郷の血を引く遠戚関係にあり、西行も平泉滞在中に藤原氏の支援を受けていたものと思われる.
陸奥国に平泉に対ひて、束稲と申山の侍に、異木は少なきやうに桜の限、花の咲たるを見てよめる
聞きもせず束稲山の桜花 吉野の外にかかるべしとは 西行 [山家集 1442]
西行が二度目に平泉を訪れたのは、文治2年(西暦1186年)のことで、既に69歳を過ぎていた西行にとってはまさしく命がけの旅だった筈だ.このときは源平の争乱で消失してしまった東大寺の再建のために、藤原秀衡の元へ砂金の勧請を請うためだったと云う.
この二度目の平泉への旅の途中で「年たけてまた越ゆべしと思ひきや 命なりけり小夜の中山」や「風になびく富士の煙の空に消えて ゆくへもしらぬわが思ひかな」の名歌が詠まれたとされている.
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