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2019
奥の細道(白川の関)
芭蕉と曽良が歩いた道を訪ねて(遊行柳から白河の関へ)
芭蕉が『奥の細道』の旅に出たのは、今から凡そ330年前の元禄二年(1689年)のことであり、当時の様子を窺い知ることはとても困難になってしまったが、かねてから一度訪れてみたかった芦の里にある『遊行柳』から『白川の関』まで芭蕉と曽良の足跡を辿ってみることにした.
芭蕉が奥の細道の旅に出た動機も、芭蕉が慕う西行や前代の歌人たちが歌に詠んだ歌枕の地を訪れることが主たる目的だったと言われている.
芭蕉と曽良は旧暦の四月二十日(現在の暦では6月7日頃)の朝に那須湯本温泉を出発し、途中の山道を迷いながらも奥州街道沿いの芦野の里へ辿り着き、そこで西行が詠んだと言う念願の『清水流るるの柳』を見物している.
『清水流るるの柳』を見物した後、芭蕉と曽良は奥州街道を北上し、国境の峠を越え白坂集落の手前で右に折れ、昔の関所跡を訪ねるために旗宿集落に向かっている.翌日、宿の主人から聞いた古関跡を訪ねたた後、関山という標高619mの低山を登った後白河城下に入ったという.白河の関への足どりは曽良の日記に詳しく記載されている.
一 芦野ヨリ白坂へ一里半余リ過テ、ヨリ居村有.是ヨリハタ村へ行バ、町ハヅレヨリ右へ切ル也.
一 関明神、関東ノ方ニ一社、奥州ノ方ニ一社、間廿間許有.両方ノ門前茶や有.小坂也.
これヨリ白坂へ十町程有.古関を尋て白坂ノ町ノ入口ヨリ右へ切レテ旗宿へ行.
廿日之晩泊ル.暮前ヨリ小雨降ル.
一 廿一日 霧雨降ル.辰上勊止、宿ヲ出ル.町ヨリ西ニ方ニ住吉・玉嶋ヲ一所祝奉宮有.
古ノ関ノ明神故ニ所ノ関ノ名有ノ由、宿ノ主申依テ参詣.ソレヨリ戻リテ関山へ参詣.
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成就山満願寺ト云.旗ノ宿ヨリ峯迄一里半、麓ヨリ峯迄十八丁.山門有.本堂有.
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コレヨリ白河へ壱里半余.中町左五左衛門ヲ尋....
現代の『おくのほそみち』はアスファルト舗装された風情も何もない退屈な道だが、国道を外れ旧道添いの集落の中を歩いていると所々に昔の街道の面影を感じ取ることができる.芭蕉と曽良が歩いた道とは異なるが、寄居集落から山越えで白河の関へ通じるショートカットの道があるので、西行や能因が歩いたのはこちらの道か、今の県道76号伊王野白河線の方かもしれない.
白河の関探訪した後、道路沿いに植えられている『正司戻の桜』と呼ばれている桜の木があったが、曽良の日記には注記の形でこの桜の木の言い伝えが記載されている.
旗ノ宿ノハヅレニ庄司モドシト云テ、畑ノ中桜木有.判官ヲ送リテ、是ヨリモドリシ酒盛ノ跡也.土中古土器有.寄妙ニ拝.
義経が鎌倉に馳せ参ずる際に義経に付き添い、討ち死にした佐藤兄弟の父である庄司基治が息子二人をここまで見送り、引き返したと言われている場所で、桜の杖を地面に突き刺し、忠義を尽くしたならこの杖がこの地に根付くだろうと息子たちに説いたと言われている.今は畑の中ではなく、道路の端となっているが、義経びいきの芭蕉であればこの木にも立ち寄ったことだろう.
古代の白河の関が置かれていた場所は江戸幕府の家老職も務めた白河藩主松平定信が考証の末、今の白河神社が置かれている場所で有ることを突き止めそこに碑を建てたことにより一般に知られるようになったが、芭蕉と曽良がこの地を訪れたのはそれよりも100年も前のことで、恐らく芭蕉と曽良は確固たる確証の無いまま今の白河の関跡付近を彷徨っていたのかもしれない.
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