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2020
かたみの薄(藤原実方の墓)
かたみの薄(藤原実方朝臣の墓)
『かたみの薄』というのは西行が奥州平泉に向かう際にこの地で平安中期の宮廷の花形歌人であった藤原実方中将の墓を見つけ、感慨深げに詠んだ歌の一節から名付けられた実方の墓の呼称だ.平安時代に盛んに詠まれた古くからの歌枕の地とはかなり趣が異なるが、西行や芭蕉によってこれだけ世の中に知れ渡っていることを考えれば、これも立派な歌枕ということになるだろう.
陸奥国にまかりたりけるに、野中に常よりもとおぼしき塚の見えけるを、人に問ひければ、中将のなん御墓と申すはこれがこと也ければ、中将とは誰がことぞと、又問ければ、実方の御ことなりと申しける、いと悲しかりける.
さらぬだに物哀に覚えけるに、霜枯れの薄、ほのぼの見え渡りて、後に語らん詞、なきやうに覚えて
朽ちもせぬ其名ばかりを留め置きて 枯野の薄形見にぞ見る 西行 [山家集 800]
藤原実方は平安中期の宮廷歌人で、三十六歌仙にも選ばれている宮廷きってのプレイボーイとして名高い人物だ.実方の事はよく知らなくても、小倉百人一首に採られている次の歌はよく知られているだろう.
かくとだにえやはいぶきのさしも草 さしも知らじなもゆる思ひを [藤原実方朝臣]
勿論、江戸時代の芭蕉も当然のごとく奥の細道の旅でこの『かたみの薄』を訪ねるべくしてこの地を訪れているが、芭蕉と曽良は『かたみの薄』に気付かずに通り過ぎてしまったようで、実際に実方の墓を訪れてはいない.
奥の細道には実方の墓に気付かずに通り過ぎてしまったとは書けなかったようで、道が悪い上に疲れていたので泣く泣く見過ごすことにしたのだというような言い訳がましい負け惜しみ的な記述になっている.勿論、芭蕉にとっては西行の絶唱を生んだこの「かたみの薄」を訪ねることは、奥の細道の旅の中でも重要なイベントだった筈で、気付かずに通り過ぎてしまったことは芭蕉にとって痛恨の極みだっただろう.
笠島
鐙摺・白石の城を過ぎ、笠島の郡に入れば、藤中将実方の塚はいづくのほどならんと、人に問へば、「これより遙か右に見ゆる山際の里を、箕輪・笠島といひ、道祖神社・形見の薄今にあり」と教ふ.このごろの五月雨に道いとあしく、身疲れはべれば、よそながら眺めやりて過ぐるに、箕輪・笠島も五月雨のをりに触れたりと、
笠島はいづこ五月のぬかり道
曽良の旅日記には、
笠嶋岩沼店増田之間、左ノ方一里斗有.三ノ輪・笠嶋と村並而有由.行過テ不見.
と記載されていて、実際には気付かずに通り過ぎてしまったのが本当のところだ.
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