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2020
文知摺(信夫の里)
信夫文知摺石(福島市)
信夫の里(現在の福島市)や信夫山も広く知れ渡った歌枕の地だ.「しのぶ山しのびてかよふ道もがな 人の心のおくも見るべく」(伊勢物語)という歌や、小倉百人一首の「みちのくの忍ぶもぢずり誰ゆえに みだれそめにし我ならなくに」(河原左大臣 源 融)などが一般に知られている代表的な歌だろう.
西行は、白河の関を越えて北上し、この信夫の里に入った際に次の歌を詠んでいる.
関に入りて信夫の里と申渡りあらぬ世のことに覚えて哀れ也.都出でし日数思ひ続けられて、霞とともに、と侍ことの跡たどりまうで来にける心一つに思ひ知られてよみける
宮古出て逢坂越し折までは 心かすめし白河の関 西行 [山家集 1127]
この歌は西行が最初の陸奥への修行(旅)の最中に詠んだもので、都を出て逢坂の関を越えるあたりまでは白河の関の事など頭の片隅程度にしか思ってもいなかったのに、その白河の関をも越えてとうとうここまで来てしまったんだなと感慨にふけっている.「心一つに思ひ知られて」というのは能因などの先人達と同じ境地に立つことができたという意味なのか、この先未知の領域である陸奥の奥深くに足を踏み入れる覚悟ができたということだったのかも知れない.
信夫の里に「文知摺(文字摺): もちずり」という名前が付いた地域がある.福島駅から東北方向に10km程行った200〜300m程の低山の裾野にある地域で、信夫文知摺という独特の布染めが行われていたという.信夫文知摺では布を石の表面に押し当て、その上から染料の草木をこすりつけることで布に不規則な石の紋様を描くという染色方法とされている.
文知摺石というのは、山裾にある曹洞宗の普門院というお寺(文知摺観音)の境内に置かれた大きな石で、河原左大臣が詠んだ歌に因んだ伝説に依るものだ.芭蕉と曽良は黒塚を訪れた翌日にこの文知摺石を見物している.普門院という現在のお寺の名前になって独立したのはつい最近の事のようで、それ以前は安洞院という歴史のあるお寺だったようだ.
現在のような普門院となる前までは、この一帯は信夫文知摺公園として整備されていたようで、何故か古いままの案内板が残されていた.案内板と現在の境内の配置の様子が異なっているので、公園施設から普門院の境内に変わった際に、境内を整備し直したのだろう.
曽良の日記に文知摺石迄の道筋が詳しく記載されている.
快晴.福嶋ヲ出ル.町ハヅレ十町程過テイガラベ村ハヅレニ川有.
川ヲ不越右ノ方へ七八丁行テアブクマ川ヲ船ニテ越ス.岡部ノ渡リト云.
ソレヨリ十七八丁山ノ方へ行テ、谷アヒニモジズリ石アリ.柵フリテ有.
草ノ観音堂有.杉檜六七本有.虎が清水ト云小ク浅キ水有.福嶋より東ノ方也.
ソノ辺ヲ山口村云.
奥の細道の本文ではこの石の云われについて書かれているが、芭蕉と曽良が訪れた当時は小さなお堂だけがある山裾に半ば地面に埋まる形で置かれていたと記されている.興味本位でこの石で布の染色を試みる人達があまりにも多く、周囲の田畑を踏み荒らして困るので村の人々がこの石を山の斜面から突き落として、石の紋様面を下にしてしまったという.
曽良の日記にも記されているように、つい最近までは柵に囲まれていたようだが、現在は石の周囲には柵は無いので昔のように布を押し当てて試して見ることは可能である.ただ石の表面は風化してしまっているので、昔の人々が興味本位で試したときのような紋様は浮かばないだろう.
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