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02
2020
末の松山、壺の碑(多賀城)
末の松山、壺の碑(多賀城碑)
仙台近郊にある歌枕の地を訪れたかったので苫小牧からフェリーで仙台に戻り、数々の歌に詠まれた歌枕の地を訪れることにした.当初の予定では大晦日に苫小牧を出航して太平洋から登る初日の出を海の上から眺める予定だったが、大晦日から元旦に掛けて大荒れになるとのことで、予定を一日早めて大晦日に日の出を眺めることにした.
末の松山、壺の碑(宮城県多賀城市)
末の松山はJR仙石線の多賀城駅からフェリーターミナル方向へ向けて徒歩で7〜8分ほどの場所にあり、寶国寺というお寺の境内裏手のこじんまりした墓地の一角にある.松山というのは大袈裟名表現で、樹齢400年の大きな松の木が聳える高さ数メートルの塚と言うのが正しい.この地が末の松山と呼ばれるのは、三六歌仙の一人である清原元輔が詠んだ『契りきなかたみに袖をしぼりつつ 末の松山波こさじとは』に依る.
この辺りは近くに港が有ることからも分かるように、海岸線の平地で松が植えられている塚のあたりでも10m程度の標高しかない.昔からこの地は津波による被害を数多く受けてきたようで、多くの津波が襲っても決してこの松の山を越えることは無かったという言い伝えから、どのような事が起きても決して心変わりはないという事を詠む歌枕として使われている.
「沖の石」(興井)は、末の松山より南へ70〜80m程下った場所にある.住宅地に囲まれた小さな池の中に、磯の岩がぽつんと浮かんでいる.海岸線から離れた場所にあるため人にも知られずにひっそりとたたずむ岩の事を人に知られることの無い届かぬ恋心に重ね合わせて歌に詠んだと云う.
曽良の旅日記の歌枕覚え書きによると、
「末松山」
塩がまの巳午ノ方三十丁斗、八幡村ニ末松山宝国寺ト云寺ノ後也.
「興井」
興井八幡村ト云所ニ有.仙台より塩竈へ行右ノ方也.塩竈より三十町程有.所ニテハ興ノ石ト云.村ノ中、屋敷之裏也.
先の震災でもこの地は大きな津波の被害を受けたようで、実際に到達した津波の高さを示す表示が市内のあちらこちらに存在する.今では被災の痕跡は殆ど目にすることはないが、この地に限らず、海岸線に近い場所ではこれからも津波とは無縁ではないことを肝に銘じておかなければならない.
JR仙石線の多賀城駅を越えて多賀城碑(壺の碑)へ向かう途中、『おもわくの橋』、『野田の玉川』と呼ばれている歌枕の地に寄ってみることにした.おもわくの橋は『安部の待ち橋』とも呼ばれ、安部貞任がおもわくという美しい娘と恋に落ち、その娘との逢瀬のために掛けさせた橋と云われている.芭蕉もこの『おもわくの橋』を訪れているが、当時は小さな小川が流れていたのだろうが、現在は廻りをコンクリートで固められてしまっていて当時の面影は無い.
西行も『おもわくの橋』を題材に歌を詠んではいるが、西行の詠んだ『おもわくの橋』はこの地ではなく名取川に掛かる橋で詠んだものとされている.
多賀城碑(壺の碑)も古くから歌に詠まれている有名な歌枕で、芭蕉と曽良もこの壺の碑を訪れている.曽良の旅日記の五月八日(現在の暦では6月24日)の記事に、「仙台ヲ立、十府官・壺碑ヲ見ル」と記されている.西行も「壺の碑」を歌に詠んではいるが(山家集 1011)、この壺の碑が発見されたのは江戸時代ということなので、西行は実際にこの「壺の碑」を見たわけではなく、津軽地方に存在すると云われていた歌枕の地である「壺の碑」の事を想像して歌に詠んだと思われる.
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